P--1209 P--1210 P--1211 #1御俗姓 御俗姓 それ祖師聖人の俗姓をいへは藤氏として 後長岡の丞相{内麿公}末孫 皇太后宮の大進有範の子なり また本地 をたつぬれは弥陀如来の化身と号しあるひは曇鸞大師の再誕ともいへり しかれはすなはち生年九歳のはる のころ慈鎮和尚の門人につらなり 出家得度してその名を範宴少納言の公と号す それよりこのかた楞厳横 河の末流をつたへ天台宗の碩学となりたまひぬ そのゝち廿九歳にしてはしめて源空聖人の禅室にまひり上 足の弟子となり 真宗一流をくみ専修専念の義をたてすみやかに凡夫直入の真心をあらはし 在家止住の愚 人ををしへて報土往生をすゝめまし〜けり そも〜今月廿八日は祖師聖人遷化の御正忌として毎年をいはす親疎をきらはす 古今の行者この正忌を存 知せさるともからあるへからす これによりて当流にその名をかけその信心を獲得したらん行者 この御正 忌をもて報謝のこゝろさしをはこはさらん行者にをひてはまことにもて木石にひとしからんものなり しか るあひたかの御恩徳のふかきことは迷盧八万のいたゝき蒼溟三千のそこにこえすきたり 報せすはあるへか らす 謝せすはあるへからさるもの歟 このゆへに毎年の例時として一七ケ日のあひた かたのことく報恩 P--1212 謝徳のために無二の勤行をいたすところなり この一七ケ日報恩講のみきりにあたりて門葉のたくひ国郡よ り来集今にをひてその退転なし しかりといへとも未安心の行者にいたりてはいかてか報恩謝徳の儀これあ らんや しかのこときのともからはこのみきりにをひて仏法の信不信をあひたつねて これを聴聞してまこ との信心を決定すへくんは真実々々聖人報謝の懇志にあひかなふへきものなり あはれなるかなやそれ聖人 の御往生は年忌とをくへたゝりて すてに一百余歳の星霜ををくるといへとも御遺訓ます〜さかんにして  教行信証の名義いまに眼前にさえきり人口にのこれり たふとむへし信すへし これについて当時真宗の行 者のなかにをいて真実信心を獲得せしむるひとこれすくなし たゝひとめ仁義はかりに名聞のこゝろをもて 報謝と号せは いかなるこゝろさしをいたすといふとも 一念帰命の真実の信心を決定せさらんひと〜は その所詮あるへからす まことにみついりてあかおちすといへるたくひなるへき歟 これによりてこの一七 ケ日報恩講中にをいて他力本願のことはりをねんころにきゝひらき 専修一向の念仏の行者にならんにいた りてはまことに今月聖人の御正日の素意にあひかなふへし これしかしなから真実々々報恩謝徳の御仏事と なりぬへき ものなり あなかしこ〜     [于時文明九年十一月初比俄為]     [報恩謝徳染翰記之者也]